
どうも、koukiです。
みんなこの世界を我が物顔で生きています。
立派な大人、立派な社会人、立派な人間。
私は消費者であって、立派な大人であって、社会の一員だと。
税金を支払い、飲食店で食事をして料金を支払い、住居を賃貸して。
会社ではそれぞれのポジションで仕事をして会社の経営の一翼を担い、場合によっては部下を束ねる。
家庭では夫や妻、子供と生活をして社会の一員として生活する。
私思うんですよ。
みんな堂々と生きられて素晴らしいな!
って。
私は本当に迷って迷って、綱渡りのような気持ちで生きています。
仕事も長いこと一つの組織で勤務していますが、働き始めた時からずっと綱渡りのような気持ちです。
ある意味その仕事に精通しているような年数ですが、日々、過去の経験ともともとあった知識を基に仕事をしています。
それでなんとかなっています。
これが他の職人と同じ感覚なのかはわかりません。
本当に素人が、ただただ年数を重ねただけの感覚がぬぐえません。
これらは他の事でもいえるのですが、私は40代。
社会ではある意味中心となる年代です。
ですが、常に完璧ではなく、未だ未完成の状態です。
自信を持って、大人として完成して生きていると胸を張って言える人たちはすごいと思います。
今日はそんな私の気持ちと経験についてお話していきます。
もくじ
右向け右ができるようになった時
私が保育園の時のお話です。
私の記憶は3歳の時から始まります。
プロフィールに書いていますが、保育園に積み上げられた布団を蹴っていて、それが倒れて友達が下敷きになって叱られたことが、覚えている最も古い記憶だと思います。
保育園では人生で必要なことを学びました。
友達との関係、先生との関係、親との関係、主に人間関係についてです。
それと同じく、行動と規律についても学んでいます。
整列、整頓、団体行動。
そのなかで、
回れ右
を習ったことは覚えているでしょうか。
私の保育園では、運動会での行進や整列の練習をしていました。
そのなかで『回れ右』を教えてもらいました。
右足を一歩引いて、体を回転させ、左足を右足につける
この一連の行動は、園児では容易な動作ではありませんでした。
簡単にできる子が一定数いますが、私は簡単にできませんでした。
簡単にできる要素は、話の理解力、体をイメージ通りにする動作力など色々あると思いますが、初めて習う動作はなかなか難しいものです。
私は保育園で教えてもらったその日にはできませんでしたから、家に帰ってから何度も練習をしました。
結果、動作の意味を理解して、体をうまく動かせるようになり、回れ右ができるようになったのです。
本当にうれしかった!
よく覚えていますよ。できるようになった時の気持ち。
足と腰が壊れるんじゃないかってくらい何度も何度も親に「できるよ!」って見せていました。
これって、西洋式軍隊の基本中の基本訓練ですよ。
これが出来なければ兵隊にもなり得ない、集団行動の基本。
練習をしまくってできるようになりました。
私の記憶では年中だったと思ます。
これで立派な園児だ、って!
中学生になった時
中学生になりました。
大人達の話や文字、心得的なもので中学生は大人だ、と考えていました。
中学生になった僕はもう大人なんだ。
体も小学校の頃に比べて大きくなっているし、大人のようなことができる。
でも、遊びは小学校の頃と変わらない。
考えていることも小学校の頃のまま。
だけど、大人だといわれているから大人のような振る舞いをしなきゃいけないんだ。
そんな気持ちでした。
ただ、中学生は子供です。
子供なのに大人達は子供らしく振舞うことを求めていません。
中学生が子供らしく振舞うことはうるさいですし、うっとうしいですからね。
かといって、中学生が大人らしく振舞うことも求めていません。
礼儀正しく大人しいならばいいですが、いっぱしの消費者面している大人としては求めていません、うっとうしいですし滑稽ですからね。
本当に大人はわがままなもんですよね。
この辺の大人の理不尽さが中学生のころはムカついて仕方なかったという覚えがあります。
親にお小遣いをもらい、ご飯を食べさせてもらい、塾へ行く。
お小遣いで好きなものを買うことや、日中に自由に友達と遊べること、大人の方向性に合わせることで大人の仲間入りをしているような気持ちになる。
そして、大人の規律から少しだけ逸れることで、自由な大人という感覚も持っていました。
その感覚は自己満足ではありますが、ちょっと勘違いの感覚ですね。
いわゆる中二病的な。
当然ながら、社会のことを知らないですから、ふわふわした綱渡りのような感覚で生きていました。
立派な中学生だ!って思った覚えはありません。
大人になった時
大人になったところをどの時点で捉えるのか。
20歳になった時?働き始めた時?初めて誰かとお付き合いした時?子供が生まれた時?
私はどの時点なのかを明確に言えません。
未だに私が考える大人に到達していないのかもしれません。
私は40代のおっさんですが、考え方や行動は小学生や中学生の頃とほとんど変わりません。
それどころか、意識のある保育園のころの自分と何も変わっていないのです。
おそらく人は、生まれた時の性格を根幹として、そこに知識という肉が付く程度なのではないかと考えています。
私が学生の頃に大人になったと感じたエピソードは
- 高校の時に帰り道で缶コーヒーを買って、友達と話をしている時
- タバコを吸って友達と話をしていた時
- 深夜放送のテレビのお笑い番組で、テレビの芸人と同じタイミングで笑えたこと
- 初めて一人暮らしをして食事を作って寝た時
- 一人で電車に乗って旅行へ行ったとき
- 友達の車に乗って、夜中にタコ焼きを食べた時
- 自分の車で、自分の金でガソリンを入れた時
こんな感じです。
クソどうでもいいエピソードでしょ??
社会で大人がやっていそうなことを意識した感覚なのではないかと思います。
他にもいろいろあると思いますが、これらに言えることはほとんどが、
一人で悦に浸った瞬間
ですね。
自己満足ですわ。
立派な大人だ、学生だ、なんて思った記憶はありません。
親になった時
大人なのかも、と考えた大きな出来事としては、子供が生まれた後です。
いきなり自分の周りに妻以外の家族が一人増えるのです。
今までいなかった存在が新たにいる・・・。
病院から自宅へ子供を連れて帰った日のこと、すごく不思議な感覚でした。
ついこないだまでいなかった人間と一緒に自宅に帰る。
しかもその人間は、何もできず、世話をしてやらなければあっというまに死んでしまう。
生活が激変する感じですよね。
この感覚はひとそれぞれで、子供ができても何も変わらない人もいるとは思います。
若くして子供が生まれた人は、激変する生活に適応できずに相変わらず恋愛に夢中になり続ける人もいます。
一人で生きていける実感と、家族と生きていく感覚が大人であろうとする意識を生むことは間違いないとは思いますが、それをもって大人になった、というのは少し違う気もします。
子供が生まれてもなお、立派な大人だ!なんて感覚になったことはありません。
綱渡りです。
親としてもド素人のままです。
生きていく手段
簡単に言えば衣食住の確保です。
現代ならばお金を稼げるかどうか、この一点のみです。
これは労働や商売による収入もあれば、国や他の人からの援助によるものも含まれます。
何らかの方法で金を稼げれば、金と交換で食料や住居も得られます。
私は労働者ですので、自分の時間と労力を組織に提供することによって収入を得ています。
つまるところ生きていく手段は『仕事は何かの方法で収入を得る』その仕組みそのものです。
仕事が楽しければ、収入を得る方法としては簡単な方法になります。
仕事が嫌でも、嫌な感覚を超える収入を得られるならばそれはそれでよいと思います。
仕事に精通してプロフェッショナルになれば、労働は容易になりますし、やりがいもでてくるかもしれませんが、それについても結局は収入を得る手段として簡単になる、ということです。
同じ仕事をしていれば練度は上がっていきますが、プロフェッショナルとは、収入を超える成果があるということになるのでしょうか。
社会の役にたつ、人のためになる、見えない基準ですかね。
自分はプロフェッショナルだといえる人は少ないです。
仕事の練度が高いだけ、特殊技能があるだけ、収入が高いだけではプロフェッショナルではないと思います。
収入を得る手段を追求することでプロフェッショナルになる可能性はあるかもしれませんがね。
私は仕事でも、大人としても、親としても、人としてもプロフェッショナルだとは到底言えません。
初めに言ったとおり、全部綱渡りです。
そんなことを考えながら、なんとか家族と共に生きている私です。
まとめ
大人になること、仕事でプロフェッショナルになったと感じることは似ている感覚だと思います。
私は死ぬまで大人にならないかもしれませんし、プロフェッショナルにならないかもしれません。
ですが、一応この社会で生きていけますし、子供も育てていけます。
生き物として考えれば、これは先人たちが築き上げた社会システムや技術によるところです。
つまり、今は大人になったり、プロフェッショナルになったりする高みに到達しなくても人は(少なくとも日本人としては)生きていけるということです。
さらに言えば、この社会は素人の集団で維持されているともいえます。
でも、どうせ生きていくならそこを目指して生きていきたいものですね。
だって、自己満足感がぶっちぎってますから。
生きてて楽しいなんて最高ですからね。