どうも、koukiです。
ブログを開始して約1年です。
ここまでの私のブログ開設、紆余曲折の軌跡について、私自身の人生の整理といった点から、ここに至るまさに原点から記事を書いていこうと思い立ちました。
アラフォー世代の方や、ブログを開設して1年経過した一人の人間の成長報告として、なんとなく読んでいただけたらよいかな、と思っています。
それでは今回は私とパソコンとの人生での接点についてお話していきます。
そっからかよ!
という突っ込みをいただければ幸いです。そっからいきます。
1969年にアポロが月面着陸した際にも、当然コンピュータが活躍していたわけですが、当時のコンピュータは今の一般的なスマホの足元にも及ばない性能でした。
業務用クーラーを何台も連ねたような超巨大なコンピュータが、片手に収まるスマホに凌駕される時代・・・。
単純に考えてスマホ1台あれば、打ち上げから月面着陸、地球帰還までのシミュレーションとプログラムができてしまうということです。
つまり、コンピュータの歴史、そしてインターネットが普及するまでには本当に倍々ゲームのような状況でしたよね。
1980年代、私はコンピュータはただのゲーム機の一つという認識で育ちました。
もくじ
パソコンとのファーストコンタクト
私が初めてパソコン(パーソナルコンピュータ)を真近で見て触れたのは、近所の八百屋さんでした。
この頃はマイコンと一般的に呼ばれていたんですかね?
八百屋さんとパソコン?と思われるかもしれません。
八百屋さんの商売とは全く関係がなく、ただ単に八百屋さんで働いているお兄さん(当時おそらく24,5歳)がパソコンを買って、それでゲームを作ったらしく、私にやってみるかい、と誘ってくれたのです。
当時、私は幼稚園の年長位で、50円玉を握りしめて近所にある八百屋さんにお菓子を買いに行くのが日課でして、小さいながらも常連客でした。
お兄さんは、顔見知った私と、一緒に買い物に来ていた近所の友達に声をかけて、自分でプログラミングしたゲームをやらせてみて反応を見たかったのかもしれません。
ゲームは、ゴキブリが画面の左から右へ通過する瞬間、タイミングを見てキーボードのどこかのキーを押し、出てくる棒でゴキブリを挟んで潰すだけのゲームでした。
今考えれば超くだらねえゲームなんですけど、連続で潰すと点数がつくので、ハイスコアを目指して1,2時間夢中でキーボードを叩いてやり続けた覚えがあります。
その日、お兄さんはニコニコして私が夢中でゲームをやる姿を見ていましたね。
その後も、何度かせがんで『ゴキブリ潰しゲーム』をやらせてもらいました。
基本子供は一度面白いと思うと無間地獄のごとく何度もせがみますから、お兄さんはそのうちに「パソコンが壊れた」だのなんだのと言ってやらせてくれなくなりました。
私のパソコンとの初めての接触はゴキブリ潰しゲームだったのです。
人生二度目のパソコンとのニアミス!
次に私がパソコンと触れ合うのは5歳年上の近所の友達の家です。
当時小学校低学年の私は、
「おれんちのパソコンでゲームができるぞ!」
という年上の友達の言葉にワクワクして家に遊びに行きました。
既にファミコン(ファミリーコンピュータ)という画期的なゲーム機が発売されてすぐの頃でした。
私はかなり初期の段階でファミコンを親が買い与えてくれましたので、TVゲームの楽しさは骨の髄までしみ込んでいた時期でした。
ファミコンのやりすぎで親に本体を隠された時には、
自殺しようかな、と考える程
ファミコンキチガイでした。
当時『ファミコン病』なる病気(頭の中がファミコンのことでいっぱいになって、ファミコンができないとパニック症状が現れたり、泣き出す病気)が大流行していました。
私より重症なファミコン病の子供たちが近所にはいっぱいいました。
今でも顔が思い浮かぶほどね。
そんなゲームに目覚めた子供たち、少なくとも私はファミコンの上位にあるものがパソコンという高度なゲーム機械という認識でしたので、友達がパソコンでゲームができると誘ってくれたのは、とても興味がそそられる楽しみなものでした。
私はパソコンやコンピュータという呼称名自体、近未来の機械だと思っていましたから。
年上の友達が持っていたパソコンはこんなのでしたね。
なんだ、このブラウン管テレビは!なんだこのカセットは!
今見るとスゲー形ですけど、当時の大人達はこんなものを何十万円も出して買っていたんですね~。
ここでやったゲームは、ロードランナーというゲームでした。
これはカラーですが、私の記憶では緑色の文字で白黒画面だった覚えです。
ロードランナーは既にファミコンではハドソンという会社から出ていたゲームでして、
なんだよ、ロードランナーかよ・・・⤵
と思いましたし、パソコンでプログラミングでゲームが作れるという話を聞かされた時にも、ファミコンでゲームができる私にとっては全く関係のない世界の話で、私とはすごく遠いところにある話だと感じました。
ファミコンはどんどん新しいソフトが出てきていましたので、わざわざ自分でプログラミングをして、つまらねえゲームを作る必要性も感じませんでした。
機械化の波!ワープロが家にやってきた!
私が小学3,4年生の頃に、父親がワープロを買ってきました。
富士通のOASHISという巨大なワープロでした。
当時NECの文豪だとか、OASHISのCMがやっていた記憶がありますので、ワープロは年賀状印刷という目的で徐々に一般家庭に普及しつつある時代でした。
少し前のラップトップっていうんですかね?
そんな感じ形状で取っ手が付いているのですが、小学生の私にとっては持ち運びするに適していない大きさと重さでした。
はっきりとした重量はわかりませんが、10kgとか15kgくらいあったのではないでしょうか、とにかくこのワープロは重いものでした。
真新しいものが好きだった私は、早速ワープロを使って文章を書き始めました。
紙のサイズがB5紙がまだ主流だった当時に、紙一枚の短編物語を作ることに夢中になりました。
ワープロはローマ字入力ではなく、ひらがな入力でしたね。
ですから、この時手に入れたキーボードからの入力技術は、この後の人生で今のところ一切役に立っていませんし、これからも役にたつことはないと思います。
ですが、当時ワープロを使う事は、自分で書いた物語が綺麗な文字で紙に印刷されるというだけで、小説家とか作家になったような気分になって非常に楽しかったですから、暇があれば楽しく書いていました。
私専用のフロッピーを与えられ、それに短編物語を記録していましたが、今では完全に失われた記録となってしまいました。
紙ベースでもよいので残しておけばよかったと思います。
小学生の時に作成した物語、今となっては読み返したいものです。
家で一番ワープロを使っていたのは間違いなく私でしたね。
この頃にインターネットの前身であるパソコン通信やワープロ通信の存在を知りますが、親の承諾を得られるわけもなく、まだまだ私がインターネットの魅力に気が付くのはずっと後のことになります。
中学校のパソコン授業は当時のハイテク授業
現在、小学校ではプログラミングの授業カリキュラムが組まれていると聞きます。
私の子供たちも若いうちから授業を受けて、あっという間に私の技術や知識を追い越すことでしょう。
人類の歴史はそうやって新しい世代が前の世代を追い越していくことで発展していますので、若い世代の方が優秀であることは間違いないのです。
ですが、実は私も学校でパソコンの授業がありました。
私の年代でそのような授業を受けている人はいないはずです。
私の中学校はまだ新築の学校で、パソコン先進モデル校と位置付けられていて、中学校にパソコン室という教室が一室設けられていました。
当時としては最先端のハイテク授業でしたが、ほとんど記憶に残っていませんし、パソコンを使って何を学習したのかと言われれば、何か文章を作ったという覚えしかありません。
当然Windowsもありませんでしたので、DOS/Vというオペレーションシステムでした。
パソコンを教えてくれる先生は、野球部の顧問で、技術の授業を受け持つ先生でした。
当時23,4歳の新任の先生で、若いというだけで選ばれたのではないかと思う程、先生にどれほどのパソコン知識があったのか、今では疑問です。
ただ、中学生相手に電源の入れ方、キーボードの使い方をさも知っているかのように教えてくれましたので、純真な私は、
「技術の先生はパソコンの知識もあるのか・・・。」
という見方をしていました。
パソコンで文字が打てるだけで、すごいなぁと感じられました。
まだまだ私とパソコンが交わるのは先のことです。
初めてのインターネット体験
私がインターネットの世界に触れたのは、まさにwindows95の発売からしばらくたった後のことです。
(パソコンといえばこんな形状が代表的なものでしたよね。)
Windowsが何なのか、今までのシステムとどう違うのかすらも知りませんでしたが、訳も分からないお祭り騒ぎに、なんとなくパソコンが使いやすくなったらしい。
なんとなく欲しい、という程度の気持ちでした。
しかし、この当時パソコンは20万円程する高価なものでしたので、まだ学生だった私は全く手の届かないものでした。
ですが、徐々にWindows効果は世間に浸透し始めていくのです。
最も親しい友達が30万円程でパソコンを購入!!
同時にインターネット接続までしているということで、早速噂のインターネットなるものを触らせてもらいました。
接続音はこんなんでしたけど、覚えてますか?
ピー、プルルルルー、ガピー、ガリガリガリ・・・
当時は56kbps(現在はだいたい1Gbps=1,000,000Kbps)の電話回線で、プロバイタ契約とは別に市内通話扱いで別に電話代がかかる時代です。
ヘビーユーザーは午後11時から電話代無料になるテレホーダイというプランでインターネットを楽しんでいましたね。憧れました。
現在の通信速度を知らなければ、遅いという感覚も感じません。
それが当然なのですから。
通信速度のことよりも、他の事がすごすぎて・・・
インターネットはすばらしい世界でした。
知りたい情報がキーボードで文字検索をすれば、検索できてしまうんですよ!
今まで図書館や辞書で調べていたことが、自宅に居ながらに、しかも激烈に簡単に知ることができるのです!
まるで自宅が図書館になったかのようですよ!
なんて便利なんだ!
今では当たり前のことが、あの頃は本当に衝撃的でした。
友達の家の電話代のことなど気にすることなく夢中になってやりましたね。
更に・・・
「こんなプロレスゲームを見つけたよ」
と言われてやらせてもらった初のまともなPCゲームがこれです!
これです。
うまくやれば袂を分かった新日本プロレスと全日本プロレスが最終的に交流戦をして、猪木VS馬場のドリームマッチを組める画期的なプロレス団体育成の会社経営ゲームでした。
こんなゲーム、スーパーファミコンでも、PCエンジンでも、プレステでも存在しません。
パソコンゲームはこういった画期的なゲームが多かったという印象でしたね。
もうね、ただひたすらパソコンはスゲー・・・ゲームもインターネットも。
それしか言えない。
自分もやりたい・・・ただ経済力が・・・ない。
まとめ
今日は私のパソコンとの接点とインターネットと触れ合うまでを書かせてもらいました。
まだまだ当分は私の中でパソコンはゲーム機だという認識は続きます。
今回の記事を書いていてパソコンに対する憧れや、当時の新鮮な気持ちを思い出しました。
ゴキブリ潰しゲームなんて久しぶりに思い出しましたよ。
八百屋のお兄さん今何しているかな?
私のパソコンが欲しいという欲求はこのあと登り竜の如く高まっていきます。
私と同じ年代の人の多くがこういった気持ちだったのではないでしょうか。
引き続き、私がインターネットとの絡みを記事にしていきますね。
あと、人類の英知であるインターネットの爆発的普及に大きな力を発揮したのは人間の本能、つまりエロ画像見たさの欲求だったという事実については、ここで追記しておきます。
私は違いますけどね。いや、マジで。