記事を書いている人のプロフィール

 

40代男性で妻子あり、持ち家あり、自家用車あり。

年齢より若作りです(DNAですかね。)

妻子あり、固い定職あり。

その固さをぶち破るべく様々な取り組みをしています。

 

その一環として

節約を学んでいます。

投資を学んでいます。

ブログを学んでいます。

瞑想を取り入れて、心と体を研ぎ澄ましています。

朝のランニング習慣などの運動を取り入れています。

 

このブログでも、ランニング記事は多いですが、考えをまとめたり研ぎ澄ます一生モノの行為であると確信しています。

但し、私は記録を目指しませんので、速度はめちゃくちゃ遅いです。

考え方としては、マラソン大会に出たならば、「早く終わらせるともったいない、時間いっぱい大会を楽しもう!」です。

普段のランニングもスローランニングでして、「少しでも能力を伸ばそう!」ではなく「気持ちよく楽しんでやろう!」です。

 

 

人生もそれでいいと思っています。

 

気持ちよく、楽しむことで能力も知らない間に向上しているからです。

無駄になることは何一つありませんし、禁止されることも何一つありません。

自分が楽しく、みんなが楽しく、それが循環することが全てです。

 

人生が激変する瞬間のほとんどは後になってわかるものです。

取り組みを楽しむこと、それだけこの先振り返ると面白くなっているものです。

 

楽しく、充実していると感じられることを淡々と続けること。

どこで感じるかは人それぞれで、自己満足、自己充実、それでいいんです。

自分自身に正直に、自分自身が目指すところを追求することが大切です。

 

ですが、他人から取り入れるところは多々ありますし、なにも人から学ぶだけではありません。

本でも、歴史でも、子供からでも、自然事象でも、なんなら石ころからも学べます。

 

あなたとの出会いによって、私も影響を受けて生きています。

様々な人から、物から、事象から影響を受け今日や明日の自分がいます。

仮に私があなたの人生に僅かながら関わることができることは、本当にありがたいことです。

 

人生の概略

私の人生について少しお話ししたいと思います。

 

両親と兄が祖母がいる家に生まれました。

平均的な収入のあるサラリーマンの親のもと、普通に生まれました。

幼少期

私の記憶は3歳から始まります。

幼稚園で1メートルほど積み上げあれた昼寝用の布団を蹴りまくって遊んでいると、その布団が崩れて近くにいた友達が埋もれ、先生に泣くまで叱られる。

象徴的な出来事で、この先もずっとこんな人生です。

 

正義の味方という生き方に憧れ、

・心が純粋であること

・みんなに優しくあること

・けんかに負けないよう強くあること

・カッコよく美しくあること

を意識していました。

『意識していた』ということは逆に言えばできていなかったということになります。

『利己的で、自分に優しく、強い存在に勝とうと考えず、規律はないが、直していきたいと考えるヤツ』これが実際の姿でした。

 

この頃もこの先も、性格は先ほどのとおり、

やや変わり者で、恥ずかしがりやだが目立ちたい自分大好きな子

という感じですね。

 

幼少の性格は今は理性でおさえられて社会生活をなんとか営める程度には改善はされていますけど、基本的な根っこは一生変わらないものだなぁ、とも思ったりします。

 

小学生

地元の公立小学校へ進学しました。もう小学生のお兄ちゃんです。

 

さしたる才能も開花することはなく、普通に小学生男子に。

ただ、好奇心は旺盛です。

学校帰りは寄り道をして、秘密基地のような場所をつくり、雨の降る公園の地面でフーバーダムさながらの運河を製作したり、日々新しい遊びを考えていました。

 

両親は一般的なしつけ、勉強時間の設定をしました。

嫌で嫌で泣きながらやっていましたので、学業という勉学に励むことには今でも若干の抵抗があります。

 

それ以外に、図鑑や学習漫画が与えられていましたので様々な事柄に興味を抱きました。

宇宙、世界、戦争、異星人、生き物、人体、生死観、歴史などなど

 

様々な事象に興味を持つことは変わることなく、今でも興味のあることは集中して学びますし、新しいこともすすんで学びます。

 

ファミコン

 

ファミコンも小学生の時に、我が家にやってきました。

コントローラーのボタンが四角で、ゴムのタイプでしたので初期型だと思います。

当時の私が、ファミコンの優位性を見極めることはできなかったはずですので、兄が親にねだったのかもしれません。

(※先日、親に会って確認したところ、父親が会社の人から一度ファミコンを借りてやってみて、面白かったから買ってきた、とのことでした。借りてきたという部分全く記憶にない!)

 

とにかく、ファミコンというゲーム機は、私の生活に大きな変化を加えたことは間違いありません。

知ること、覚えること、考えることの一部はゲームが影響しています。

ファミコンのやりすぎで親にファミコン本体を隠されて自殺を考えることは、私と同じ時代を生きる多くの子供に見られた思考だと思います。

同時に、壮大な捜索によって隠されたファミコンを発見した時の気持ちは、宝島を発見した時の冒険家の気持ちと同じだということも知っています。

 

同じく影響を受けるものとしては、漫画です。

様々な漫画を描く藤子不二雄に憧れて、親が定めた勉強時間中にこっそりと漫画ばかり描いていました。

私の描く自作漫画は、頭にトサカの生えた人間が戦う漫画でした。

今でも、あの当時と全く同じクオリティの漫画を描くことができます。(というかそれ以上は描けません。)

 

私が好きだった藤子不二雄は、F(藤本弘)とA(安孫子素雄)で画風が異なり、オチかたまでそれぞれの個性が出ていて独特です。

藤本弘の漫画の方が、内容も画風も好きでした。

藤子不二雄は、ドラえもんや怪物くんなどの子供向け漫画が多いですが、Fの描く『少年SF短編』は今でも少なからず私に影響を与えている漫画だと感じています。

 

学校では同級生から漫画を描くのが上手だとか、変わり者ゆえに先生からは考え方がユニークであるとか言われて嬉しかったという記憶が強く残っています。

ですが、定められた時間に真面目に勉強してきた兄と違い、私は手を抜くことばかり考えてきましたので学校の成績は平均程度でした。

兄は幼い頃から神童とされるような優等生、私は勉強のできない劣等生で

僕はダメな人間なんだ、生きている意味のない人間なんだ

という気持ちは大人になるまで少なからず、思考の一部に存在し続けていました。

 

貨物列車

 

小学生の頃から旅に出たいという願望が強く、家の近くを走る貨物列車に飛び乗って旅にでることを夢見ていました。

貨物列車に飛び乗る方法については結構具体的に考えていましたが、もしその計画を実行に移す行動力があったならば、確実にこの世にはいなかったことでしょう。

日本以外の国へ行ってみたい、冒険をしたい、いつもそんな気持ちがありました。

 

『天空の城ラピュタ』という映画があります。

これには強い影響を受けました。

この世界には、誰も到達したことがない場所がまだあるのではないか、知らない事象があるのではないか、と。

山登りが好きなのは、少なからずこういった考え方や見たものに影響を受けていると考えています。

 

好きな女の子もできました。

それまでの、「〇〇ちゃんが好き~」という言葉が、なんと幼く愛らしいものだったかと。

 

毎日、いつでも、どんな状況でも、好きな子を重ね合わせて、世界はその子を中心に回っていて、嬉しくなったり苦しくなったり、これが人を好きになるということだと知ります。

計り知れないスケールに戸惑う程に。

どうすればいいのか、どうすればこの気持ちを充足できるのか、本当にどうすればいいのかが、本当に分からず、奇怪な行動やアプローチで嫌われてしまいます。

これをはじめから上手くできる人は、人生を何度も繰り返してきた達人なんじゃないかと思います。

 

今なら過去の私にこう教えてあげます。

「恥ずかしがらずに普通に思っていることを、言葉でそのまま伝えればいいんだよ。全てが落ち着くところに落ち着くよ。」と。

 

中学生

公立中学校へ進学すると、大人の仲間入りだと考えていました。

それは本やテレビの影響と、小学生の私が見た中学生の姿や考え方は間違いなく大人だったからです。

もっと自由が増えて、自分の裁量で考えて行動できると。

(もちろんこんな端的な文字にすることができるような考え方には至っておらず漠然としていますが。)

 

しかし、異性の話やプロ野球の話やファッション、音楽の話が増えたくらいで、私自身は好きなものが何も変わっていないことに気がつきます。

相変わらずゲームが好きですし、冒険に出たい気持ちも同じで、インディー・ジョーンズや上村直己に憧れ、強くて優しい正義の味方に憧れています。

 

その気持ちに、『自由に生きていきたいという気持ちと、流行りについていかなくてはいけない、周りに負けまい、という焦り』が加わっただけでした。

土日や放課後を浪費する、やりたくもない部活に疑問を抱きながら、みんなが部活に入るものだからと言われて部活をする。

塾へ行き、部活をして、友人関係に悩み、親の小言に腹を立てました。

テレビを見て、映画を見て、漫画を読んで、ラジオを聞いて、友人の話に影響を受けました。

当時の私の年齢ですと、友人の影響や、メディアの影響はとてつもなく大きいものでした。

 

見える範囲の小さな世界が全てで、社会に属するとはなにか、などと意味を探しつつも、激しく逸脱することもなく今を生きていました。

おそらく多くの人がそうであるように、私はもこの頃に、人間関係の在り方や位置、人生への疑問や自由について深く考えました。

そして、哲学的かつ天邪鬼な人間へ更に成長していきます。

我思うと我思う、ゆえに我ありと我思うですね。(※ビアス引用です)

これは皆同じですよ。中学生位の年齢で明確な自我が芽生えるのだと思います。

自分の認識する世界は自分の中で作り出される。

要は自分の認知の仕方次第で、良いものにも悪いものにもすることができるということです。

 

中学校生活自体は、全体的には友達達と関わる中で、大筋では非常に楽しいものでした。

ですが、個性や人間の器がだんだんと見え、上下平行全ての権力への反抗心と破滅的で極端な思考の生まれる時期でもありましたので、今こうやってブログを書いていること自体、本当に様々な人や事象に支えられ助けられて今があると考えています。

 

人を傷つけ、傷つけられて、成長する。

もっと簡単に、誰も傷つくことなく平穏に成長ができればいいのですが、こればかりは自然の成り行きですので、お互い様、赦し、赦し合うしかありません。

私にも生きてきた中で、未だに赦しきれないことが少なからずありますが、最終的には全てを赦し、赦してもらえると思うことが穏やかな死に様を迎える考え方ではないかと思っています。

キリスト教はその宗教という教義があるが故に様々な争いや悲しみを生み、同時に幸福や偉大な文化・芸術を生み、絶対神信仰という宗教に抗らう好奇心による真理の発見に繋がりますが、キリストの考えの幸福の原点にある

赦す赦される

という点については、あながち間違ってはいないと思います。

この話はここまでにして、いずれ詳しく別記事として書いていきたいと考えています。

 

話を戻します。中学時代の私のことです。

身体的には、母親の身長を抜いて、大人から形式的に大人扱いされることで、少しずつ大人に近づいている感覚も時折感じていました。

性的欲求も強力になってきます。

人を好きになるということよりも、性欲の方が勝る時期です。

誰でもいいからエッチをしたい、エッチできれば即死してもいい

これは当時の私個人の考え方ですが、おそらくほとんどの男子がこう考えているはずです。

この強烈な欲求は自分自身の命・世界と天秤にかけられる程のもので、女性には理解しがたいものかもしれませんが、犯罪や破滅的な思考に陥りやすい点だと考えています。

(私は女性ではないのでわかりませんが、同じような欲求が女性にもあるのであれば、是非お問い合わせフォームで教えてください、非常に興味深いテーマです。ちなみに私の妻は「そこまでの激しい欲求はなかった」と言っていました。)

 

学校の成績については、小学校から嫌々勉強してきた算数があまりに嫌いすぎて、数学は平均よりも相当に落ちていました。

また、英語に憧れをもちながらも、日本で生きていくのに英語は必要がないと理由を探して、できない自分を守ることにも徹しました。

 

そういえば、中学生3年生の土曜日の午後に、ふと、神に導かれるように「何か」を見つけられる気がして、親の部屋を捜索したことがあります。

そして、親の部屋に隠された『ラベルの貼っていないVHSのビデオテープ』を発見しました。

「もしや、これは・・・宝物なのでは!?」

とダイヤモンドの原石を発見した感覚で、ビデオデッキに入れて再生したところ、映像は非常に荒いものでしたが、『まぎれもない宝物』でした。

そうです、裏ビデオだったのです。

 

「お父さんでもこんなものを持っているのか・・・」

その頃の私は親の性思考について考えたこともありませんでしたし、親にも性思考があること自体に考えが及びませんでしたので衝撃を覚えましたが、それをかき消す喜びを感じました。

当時のエロビデオはゆうに1万円を超える金額で販売されていて、『安売王』なる販売会社が2千円台でエロビデオの販売を開始する前でしたので超貴重品でした。

 

親が留守の時にビデオを見るようになるのですが、

 

発見場所から取り出してこっそり見る

再生開始と同じ場面まで巻き戻す

元の場所へ確実に戻す

 

という緻密な作業と、思いがけず親や兄が帰ってきた際には、平静を保ちながら迅速かつ隠密裏に元に戻す苦労がありました。

これはその後の人生の隠密活動に生かされていきます。

 

好きな子もできました。

中学二年生の時には面白くてカッコいい男の子がいて、好きになりかけたことがあり、あれは恋愛感情に近い感覚でした。

今ならばLGBTの人権が認められていますが、この当時はただのホモ扱いですし、なんだかんだ言ったところで私自身も女の子が好きですので

これはマズいよ…戻れ戻れ

とその気持ちを誰にも知られることなく静かに抑えました。

抑えようと思って抑えられる程度でしたので良かったのですが、もし今のようにこの時代が精神的に自由な社会規範や風潮があったならば、考えを抑圧することなく、思うままに解放していたのかもしれません。

それが良いか悪いかはいまだに考えが整理できていません。

 

思春期はホルモンバランスが絶妙であるため、ホルモンに支配される脳の思考もどっちに振れるかわからない時期です。

それは遺伝子であったり、経験であったり、時代や成長環境に左右されます。

ですので私自身、LGBTの要素を少なからず持っていることは事実でしょうし、それらマイノリティ思考についても、ある程度の理解を持っているつもりです。

このことは大人になった今こそ分析ができますが、当時の思考で至るわけがありません。

最近、『ムーンライト』という映画を見ました。

アメリカのマイアミ居住の母子家庭黒人少年のお話しですが、マイノリティ×2とか3の、何重の輪の中のほんの一部に該当する少年のお話しで、マジョリティには「??なにが言いたいの?この映画?」ですが、私には若干の回顧が得られた映画でした。

 

中学三年生の時には転校してきた眼鏡の女の子を好きになりました。

可愛くて、優しくて、勉強ができて、そして巨乳

という子でした。

私の性格上、当然告白などという行動ができるはずもなく卒業と共に過ぎ去っていきますが、19歳の時に、年末年始に郵便局での年賀状を仕分けるアルバイトをしている時、偶然この子が同級生の友人に出したであろう年賀状を見つけました。

申し訳なさを感じながらも内容を見ると、同性の同級生に対して

関東の大学に行っていること

元気でやっていること

が書かれており、ちょっと嬉しくなったという出来事がありました。

この子との関わりはこれで最後ですが、今でもあの頃の気持ちはよく覚えています。

 

高校生

公立普通科高校に進学しました。アホ高校ですけどね。

 

勉強の成績、周囲の人間関係、拘束される環境が思考ウエイトの多くを占めていました。

ですが異性関係で悩むことはほとんどありませんでした。

気になる女の子はいましたが、好きになった子はいませんでした。

その理由として、視力が落ちていたからです。

かといって眼鏡をかけることもなかった私は、近距離にいる人の顔を見ることはあっても遠くの人を見ることがなかったのです。

これは物理的にも精神的にもです。

 

毎日電車に乗って登校し、眠たい授業を受けて、休み時間に同級生ととりとめのない話をする繰り返し。

友達になれたと思った奴にひどいことを言われたり、逆に自分がそのような行為をしたり。

窮屈な生活で、高校を辞めて自由になった友人に憧れさえ抱いていました。

 

 

「乞食でもいい、最低限食べれて自由に生きられればいい。」

TVの警察24時で、浮浪者が保護される映像を見て、こんな生き方も悪くないと真剣に考えました。

本当に窮屈な気持ちでした。振り返ればこの頃は心が病んでいる気がします。

 

何がここまで窮屈にしているか、その答えは自分自身なのですが、この頃は社会や学校のせいだと確信していました。

悩みが多くなると共に、ひねた考えは更に深くなりました。

そういった考えからなのか、この頃には哲学のみならず心理学や社会学にも興味をもっていました。

 

小学生の自分から見れば、高校生の自分は相当な大人だと思うでしょうが、考えている根本は小さい頃からほとんど変わっていないのです。

 

空想

 

Q 何のために生きるのか?

A 「わからん!」

Q やりたいことは何か?

A 「冒険家?考古学者?とりあえずお金を稼いで生活できれば何でもいいや!」

Q 一生を費やすに値する生活は何か?

A 「人の為に何かをする!でも本当は何もしたくない!」

LastA「まずは学生を早く終えて、早くお金を稼ぎたい。それが大人だ、早く自由になりたい!

という考えがまとまってきます。(まとまっているわけではないですけど、当時至った方向性がこれです(笑))

 

ですから、高卒ですぐに仕事ができる工業科、商業科の高校へ行っていればよかったと、高校生の時に思いました。

(今でも生活に必要な資格に触れられるそれらの高校に進学することは、人生にとって非常に有効だっただろうと考えています。)

 

しかし、この先の目標らしい目標がありませんでしたので、私は普通科しか選びようがなかったのです。

中学の時に工業、商業を選べる同級生たちはどういった目標や基準があって選んでいるのでしょうか。

早々に仕事や目標を見つけることができた人たちは、それだけで本当にすごいことだと今でも思います。

 

この頃は、生活する程度のお金を稼げれば、どんな仕事をしていってもとりあえず自由になると考えていました。

だって、周りの大人はみんな普通に仕事に行ってお金を稼いで、好きなものを食べて好きなものを買っていましたから。

学校へ通うことを考えれば、住むところがあり、更に車があり、好きなものを好きなだけ食べられる生活は、当時の私の視点からは自由の象徴に見えたのです。

ただ、働くのはなかなか大変だということも、この頃に引越屋のバイトをやって知りました。

バイトをすれば、親からもらえる月の小遣いをゆうに超える金額を、一日で貰えました。

だけど、めっちゃくちゃキツイ仕事では持続することができないことも分かりましたので、仕事は選ばなければなぁと。

 

高校での授業は、数学や英語などの落ちこぼれた科目も多く、つまらないと思っていた一方で、歴史や現代社会にはとても興味がありました。

そして、なんとなく社会に出て、最も役に立つ科目であるという認識がありました。

 

英語、数学、化学が何の役に立つのか?

生活や仕事で使うことはないだろう、と。

知ったことや学んだことの全てが人生の引出しになり、無駄だと思えることのほとんどが全く無駄ではないことは、今なら明らに分かっていることです。

ですが、当時の私は、効率を追求すれば学校の学習の多くは人生に必要なし、と判断したのです。

その判断の結果、私は未だに数学的な判断力が乏しいです。

後に学んだ最低限の金勘定ができるだけです。

 

高校卒業間近に、社会の先生がこんなことを言っていました。

「大人になって、実印を作る時には仕事を休んで作りに行けばいいんだよ、そんな時くらい仕事を休めば。」

こんな言葉に

「仕事を休んでやりたいことができるなんて大人だなぁ、自由だなぁ~。」

なんて感じていました。

大人になるっていう未来は明るいな!楽しいな!って。

 

大学

たまたま、県外の私立大学に合格しました。

 

学校推薦で、原稿用紙1枚の作文を書いたところ合格しました。

私の偏差値よりもずっと高い大学でした。

人生は良いことも悪いこともいろいろあるんだなぁ、と嬉しく思いました。

ただ、大学を卒業する時には、私の偏差値あたりまで大学自体の偏差値が下ってきました。

当然ですよね、私のような奴らばかりを集めれば適正偏差値になるのは当たりまえです。

 

県外の大学へ行ったのは高校の三者面談で母親が教師にこのように言ったからです。

「この子の甘えでしょうけど、進学するなら県内の学校に行きたいと考えているようです。」

「県内の学校へいけば近いし、お金の面でも生活は楽だな。」と母親には確かに言いましたが、その言葉が「甘え」という言われ方をされたことに腹が立ちました。

そして、絶対に県外の大学に行ってやる、と考えたのです。

一人で生活をするという強い自立心がムクムクと沸き上がったのです。

(仕送りをもらう時点で自立からは程遠いですが、ずっと親のそばで生活をしていた環境を考えれば、自立の第一歩と考えていました。)

 

大学の自由な雰囲気は大好きでした。

当初は、友人や知人が一人もいない場所で激しい寂しさがありました。

徐々に友人ができて、一人の生活に慣れていくにつれ、今までの縛られた生活とは比べ物にならない自由な気持ちを感じるようになりました。

仕送をもらう親に依存する生活ではありますが、自分次第で仕送りの用途を決めることができ、時間的な余裕があるということが新鮮な経験でした。

大学の授業も、必修科目以外は自分の好きな授業を選択して受講することができるところも自由を感じさせてくれました。

自分自身で学びたいことをコントロールできることは、大学の大きな特徴で、渇望する専門的な社会学系の授業を楽しく受講しました。

また、授業中に寝ても怒られることはなく、更には授業をサボってどこかへ遊びに行くことも自分自身のコントロール下にあるという自由さは衝撃でした。

 

 門が いかに狭かろうと
 いかなる罰に苦しめられようと

 私が我が運命の支配者
 私が我が魂の指揮官

これは映画の中でネルソンマンデラが自分自身に言い続けたセリフです。

私の中で間違いなく偉人の一人であるネルソンマンデラの人生の一部の物語ですが、『インビクタス』という映画です。

この時にはまだ気がついていませんし、この後に様々な苦難が待ち受けていて、拾い上げたものですね。

 

 

しかも夏休みの長いこと!2か月近く何も予定が入っていない生活って、なんて自由なんだ!

 

貧乏アパート

自分自身でコントロールできる自由はある、しかし好きなだけ使えるような自由なお金はほとんどありません。

私は小遣いに代わり、親からの仕送り生活となりました。

両親の収入を考えれば、私が生活費として使える金額しか仕送りができないのは当たり前ですし、当然迷惑をかけているという気持ちがありましたので、妥当でありがたいお金です。

大学生活では、節約と浪費をしない考え方、そしてその生活の中での、たまの贅沢について学びます。

飲み物や食べ物はもちろん、今まではお小遣いを何か月も貯めて買っていたゲームを迷わず買う高卒で働き始めた友人の姿は本当に眩しかった。

 

節約とともに、私の収入の確保はバイトでした。

田舎にある大学のためバイトの給料は最低限の時給設定で、それでも学生バイトの募集がかかればすぐに応募があるような場所でした。

それでも私もバイトをしました。

労働をして給料をもらうということは結構大変!

バイトでは自分の世間知らずさや熟練バイトの仕事に対する姿勢などを比較する自己嫌悪、仕事を終えた充実感を知ります。

 

それでも欲しいものが買える!友達と遊びに出かけられる、コンパに行ける、女の子と遊びにいける!

ひどく安いバイト給料で時間と費やしても、そんな先の喜びがありました。

 

 

初めてパソコンの存在と密接に触れ合うようになります。

Windowsを発売日に買うニュースは随分と前に横目で見ていましたが、やっと私に関わる話になってきました。

最初の接点は友人のパソコンです。

 

「パソコンでゲームができる?しかもマニアックなゲームができるの?いいね!

インターネット?なんでも調べられるの?欲しかったCDや漫画も検索して買えるの?すごいね!」

 

マルチメディアだのインターネットだのって、パソコンの時代が来ていることはなんとなく分かっていました。

俄然パソコンが欲しくなり、バイトで貯めたお金を断腸の思いでパソコン購入に投入しました。

パソコン購入後しばらくはインターネットを接続するお金がなかったのでWindows構成や使い方を見てばかりでしたがそれでも楽しかった。

Windowsの構造を理解するいい時間だったと思います。

 

大学生はお金はないけれど、時間はある。

車の免許はあるが車はない、250の単車ならば安く買えるし車検もないが免許をとるお金がない。

そんな言い訳を自分にして、結局単車に乗ることはありませんでした。

ジール

私が欲しかった単車はYAMAHAのジールでした。

単車に女の子を乗せて走れば合法的に抱きついてもらえるし、行こうと思えば日本中どこへでもいけるし。

そんな姿を妄想して楽しんでいましたが、ひたすら妄想でした。

今は大型二輪免許を持っていますが、単車を必要としない今よりも当時に免許を取って単車を購入していれば経験や世界は広がったでしょう。

自己投資が最優先、やってみたいことはどんどんやる、そんな勇気や決断が当時にできていたならば今の自分はありません。

ですが、今の自分は大好きです。未だ成長途中ですから。

 

当時バイクを乗り回していたならば、事故をして死んでいるかもしれませんが、そんなことはもしかもの話で予見不可能です。やりたいことをすればよかったのです。

 

私の人生は様々な面で、決断力や行動力がなかったことや、自分に言い訳をして行動をしないことが多々あります。

世界旅行もそうです。

大学生はお金はないけれど、時間はある。

なんとかしようとすれば、なんとでも海外に旅にでることはできたはずですが、私はそれをしませんでした。

行動に移すことができない思考と、大学生活という現状に良くも悪くも満足していたからです。

 

会社勤めの収入で自由を得られる!?

私はついに長年待ち望んでいた、働く大人になりました。

今までの生活で我慢して買えなかったものが買える収入がある、そんな気持ちでした。

もちろん、直前には大学生という自由な時間がなくなる戻れない気持ちも大いにありました。

 

確かに学生に比べて劇的な収入がありました。

高卒の友人達のように、欲しいCDもゲーム購入も、外食も金額でさほど迷うことなくできるようになりました。

自分の第二の部屋かつ、どこへでも行ける自由な道具と考えていた車を持ちました。

彼女とのデートは遠方へ行き、時に宿泊をして楽しむことができました。

 

あれだけ憧れた大人の自由な生活は、精神的にまだまだ制限された自由でした。

酒が飲める、タバコが吸える、そんな自由は所詮大した自由ではありません。

 

窮屈

でも、大人というものはこういうもの。

 

私は思いました。

今まで学校に通ってきたこと、土日もいやいや部活に行ったこと、嫌いな勉強を継続してきたことは大切だった。

こういう忍耐は全て大人になっても耐えうる能力をつけるためだったんだろうな。

今の仕事を修行と考えて耐えて頑張れば、きっと楽しい生活がやってくる。

やりたい仕事に巡り合えば、きっと人生は激変する。

 

生活と並列に仕事があるどころか、仕事を中心とした生活です。

 

この部分に疑問を差しはさむことは、自分が怠け者であるという罪悪感と劣等感を感じるのでできるだけ考えないようにしていたのかもしれません。

その部分を考えないようにしながら、友達と遊び、彼女と遊び、日々の日常が流れていく感じでした。

 

最も大切な自由は心の自由だということにまだ気が付いていないこの頃は、仕事を変えれば自由に近づけると考えました。

一発逆転しなければならない程、人生傾いてはいませんでしたが、当たればデカそうな株式投資、宝くじの大人買いもしました。

良さそうな儲け話もさがしました。

こういう思考の時に現れるものは、どれもこれもカモにされるようなものばかりです。

 

 

自分が求めるものは金なのか、時間なのか、やりがいなのか?

自由を手に入れるには定年するしかないという諦めの境地へ至り、仕事のやりがいを求めて転職します。

 

自由を求めるよりも充実感を求めることが人生は正解なのではないか、と考えて現在の仕事に到達します。

転職したところで自由には辿り着きませんが、いろんな意味で楽しい・充実していると思える業務は確かにあります。

自由とは隔絶した現在の仕事は、確かに充実感がある場面があります。

これだな・・・俺の仕事は。そう思うことも幾度とありました。

人生の中で指折りの継続期間を有する今の仕事をしていますが、自由を求める思考は消えることはありませんね。

 

家族と過ごす時間

私にも家族ができました。

自分が夫になり、親になるということは子供の頃には想像もできなかったことでした。

 

自分が好きになった女性との間に、自分の半分分身が誕生することは不思議で、驚異的なことです。

今まで存在しなかった、自分の子という新たな思考がこの世界に誕生するのです。

 

外見が似るのは当然ですが、生まれながらにして自分の行動とよく似た面にも気がつきます。

それと同時に、自分自身とは全く逆の考え方や、自分にはない特性を見つけるたびに、子とはいえ完全な個人であると痛感します。

 

この子はどんな性格をしているのか、話ができない頃には楽しみでした。

子が大きくなるにつれ、幼い頃の思考や性格をベースに大きくなるということを改めて教えられました。

これは子に教えられたことの一つです。

ですから自分の子も先生なのです。

 

自分の幼い頃の思考をよく思い出すと、自由に過ごしたいという願望が強かったのです。

本当に三つ子の魂百まで。

多くの方は幼い頃の性格や気持ちを上手く抑圧していると思います。

しかし、正直に自分の気持ちを洗い出していくと、小さい頃の望みというものが見えてくると思うのです。

性格も理性によって社会に適応させることができているのですが、洗い出すとその中心には幼い頃の性格がしっかりと残っています。

 

人生設計

これらの前提のうえで、私は現在人生を設計し、進んでいます。

 

私は以下の目的で生きています。

1,経済的に自由な生活。

2,精神的に自由な生活。

3,家族と時間を共有する生活。

4,人に優しくある生活。

5,日々楽しんで成長する生活。

 

この視点からやりたいこと、できることを淡々と楽しみながら生活しています。

このブログでは

〇 経済的な自由を得るための投資

〇 生活を豊かで楽しいものにするための手法

〇 影響を受け、影響を発信する内容

〇 思考をまとめて考え方をまとめた内容

〇 私が面白いと思った事柄

などを書いています。

自由

 

 

ここまで非常に長いプロフィールを読んでいただきありがとうございます。

ここまで読んでいただけるのは私以外には『あなただけ』だと思いますよ。

これからもよろしくお願いします。

ありがとうございます。

 

 

御意見、御感想、お問い合わせは下記フォームよりご連絡ください。

 

一行でも御感想をいただけるだけで、飛び上がる程嬉しいです。